「来年は実がなるかもしれません」 04−02−22
ルカ13:1〜9
主イエスは、たとえ話を通して、私たちが主のものとされているゆえに
恐れることはないことを、語りかけてくださいます。
ぶどう園にいちじくの木がありました。主人は、そのまま3年様子を
見ていましたが、実をならせないので、切り倒すようにいいます。
しかし園丁はその木のために主人に言います。「今年もこのままに
しておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
そうすれば来年は実がなるかも知れません。」
このいちじくの木は、私たちのことです。それは、ぶどう園という神の国
には、本来ふさわしくないものでした。それでも、園丁としてイエスさまが
そこに植えてくれたのです。ぶどう園に場所を与えられたからといって、
その場にふさわしい木になったのではありません。なお、いちじくの木で
あり、しかも実を結ばず「切り倒せ」といわれても仕方がない存在です。
しかし、いちじくの木の傍らには、園丁が立っていてくれます。園丁に
よって、そこに場所を与えられた木は、園丁のとりなしによって守られ、
そこに置かれ続けるのです。園丁の言う「肥やし」は十字架の血潮です。
それによって、罪を取り去られ、神の国にふさわしいものとして植えられ、
養われていきます。
「あなたは、わたしの大切ないちじくの木だ」と主は語りかけてくださいます。
自分の命を注いで木を大切にするこの園丁は、次の年に主人から「やっぱり
ダメだったから切り倒せ」と言われた時にも、「来年は実がなるかも知れません」
と言って、再びとりなしてくださるに違いありません。
主イエスが真実の救い主でいてくださるということは、一時だけの救い主
ではなく、救い主としてあり続けてくださるということです。
私たちがそのような主イエスの大切ないちじくの木とされていることが、
どんな時にも私たちの慰めとなり、私たちを生かすのです。
主は、悲劇、事件、事故を目の当たりにして動揺する者を、この滅びでは
ない道へと招いておられます。